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●退院

退院のときの先生のお言葉です。
「なるべく身体を使わずにちょっとでも疲れたら直ぐに横になって休むこと。暑い、寒いと感じないようにすること。食事は栄養のある物を作ってもらい、上げ膳据え膳ができる状況にしてください。もし、これらが守れないようなら退院はさせられません。」

「はい、食事は母が作ってくれますし、大丈夫です」
とにかく一日も早く退院したい私は何でも言うことを聞く、模範的な患者でした。

そして先生は「10年頑張って生きてなさい。今の医療の進歩だと10年後にはきっと効く薬ができる。それまで絶対に生きてなさい。」
「私の病気は治らないのですね?」
「今の医学では」
そう言われて、私は実家に戻れたのです。

強制帰還させられてから手術までの1年間は病気のために我慢していた私ですが、目標がなくなってしまった退院後は退屈極まりない時間の流れでした。ましてや先生の仰ったことを守ろうとするならば、それが生きているということ?私が生きるって何? 体力も体重も回復してきた私は毎日そんなことばかり考えていました。

そんな私をみていた両親がある晩、「お前はどうしたい? ここにこうしてずーっと居てもいいし、東京に帰りたければそうしてもいいですよ。自分の人生を選ぶのは自分。やりたいことがあればやればいい。お医者さんには私が話します」と父が言ってくれました。

「東京に帰りたい。やりたいことがまだいっぱいある」
今は亡き父ですが、私を病院から救ってくれた(ちょっと違うかもしれませんが)のがこれで3回目でした。

ちょっと話は逸れますが、1回目は体温計を振り切って(昔の体温計は42度までしか測れない水銀の体温計、要するに42度は超えていた)担ぎ込まれたときです。この時は熱と闘いました。この闘いに負けたら頭がおかしくなると真剣に思ったのです。実は子供の頃から40度の熱は年に1回くらいは出していて、熱には非常に強かった私です。でもこの時ばかりは本当に駄目かもと思ったのでした。
2日目か3日目にようやく39度台まで熱が下がりました。この時闘いに勝った、終わったという虚脱感を、今でも鮮明に憶えています。

1週間ほどして熱もすっかり下がり食欲旺盛、何の症状もない普通の状態に戻り、直ぐにでも退院と思ったら、病院側は原因が分らないのに退院させられないと言うのです。
「お父さん助けて」と父に病院に来て貰い、退院させて欲しいと訴えました。私はまだ未成年でしたので自分の意思では勝手な行動はできなかったのです。

医者「いろいろ検査しているのですが、原因がわからないので退院させられません」
父「原因が分らないから退院させられないというなら、分かれば退院できるのですね? れいこは風邪っぽいと言っていましたが」
これは嘘です。父は私の熱に慣れていたので、私が本当に大丈夫だと確信していたのです。
この一言で、医者が納得したのか、怒ったのかはわかりませんが、とにかく退院できたのです。その後、具合が悪くはなりませんでした。

2回目は、以前に書いた検査入院の時です。理詰めで主治医と渡り合い、絶対に入院したくない私を通院ですむようにしてくれたのです。

そして、三度目。また主治医と話してくれました。主治医は検査入院を勧めた先生ではなく、新しい先生に変わっていました。10年生きてなさいと言ってくださった先生です。

とにかく心の優しい先生でした。父や私の話を聴いてくださり、東京の血液専門の先生のいる病院を紹介してくださいました。当時は専門医が少なく、全国の血液専門医をご存じでした。確か東京には3人の先生がいらしたと記憶しています。そんな時代によく私の病気が発見されたと今更ながらに思います。最後に先生は「絶対に子供を作ってはいけません。もし出来たら生むしかありません。お腹にいる間は多分大丈夫でしょう。でも赤ちゃんがお腹から出た瞬間にあなたの命は無いと思ってください。」父はこの言葉を深く受け止めたようでした。

私はこの両親から生まれた事を心から感謝しています。いつ死ぬかわからないようなことを言われた娘に、それでも好きなように生きなさいと言ってくれる両親がどれほどいるでしょうか。この両親のお陰で私はいままで生きてこられたと真実思います。


●東京の大学病院

すべてのデータを持って東京の大学病院に行きました。

新しい主治医は、丁寧にデータを見ると思ったら大間違い。これはうちのデータじゃないから、と言ってすべて同じように検査、検査、検査。どうして、前の病院の検査を土台にして考えてくれないのでしょうか。骨髄検査はもう二度としたくないと思っていたのに……。

それどころか、ここで、今思えばとんでもない検査をされたのでした。

主治医の説明では「コバルトを使う」ということで、片方の腕の血管からコバルトを入れ、反対の腕の血管からどのくらいの時間を経て、どんなふうに出てくるかを検査するのです。

私がまずびっくりしたのは、検査室は普段の血液検査の場所とは全く違う部屋でした。そして、その検査室に現れた、主治医とは別の若い医師(検査技師ではなかった)は完全防備、私は普段着。どういうことでしょう。そのとき頭が混乱しました。この検査は本当に大丈夫なのだろうか? こんなことしてもよいのだろうか? 私はコバルトを浴びてもオッケイで、医者は駄目とはどういうこと?

私は一日中病院にいて、コバルト注入後、何回も何回も血液を抜かれました。しかもその当時は現在の点滴みたいに針を入れっぱなしにするような器具はなく、毎回針を刺したのでした。

今、思えばどうしてその場を逃げなかったか不思議です。実験台にでもされたのでしょうか。こんな検査、後にも先にも聞いたことがありません。

とにかくこの病院でも変化なし、毎月の血液検査に通うしかなかったのです。恐い検査、痛い検査、検査、検査、何の治療もせずに時間だけが過ぎていきます。

私はついに、病院通いを止めることを決心しました。優しかった名古屋の先生の一言を思いだし、「今の医学では治らない」なら、自分でなんとかしてやる!!! ようやく、医学に頼らずに自分で克服する決心がついたのです。

<2013年8月27日 加瀬玲子>


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